幸せになりたい その6

相手によって対応を変える愚かさ

世の中には、相手によって対応を変えることを、卑しい行為だと思っていない方がいます。
相手が男か女か、子供か大人か、文句を言いそうか言わなさそうか、お金持ちかそうでないか、………………
そういう人は、いろんな基準で相手を選り分けて対応を変えているのではないでしょうか?
結局、そういう人の判断基準は、自分にとって「損か得か」という基準で相手を選別しているのだと思います。

女性だったらそんなに文句は言ってこないだろうから適当に対応しても怖くない、自分はお客なんだから威張る権利があるから横柄な態度をとってやろう、この人に親切にしておくと何か見返りがありそうだ……………
そういう考えの人は、他人を不快な思いにしますから、必ずその行為は自分に返ってきます。

そもそも、そういう人は自分で相手への対応を選んでいるつもりなのが、結局は相手や損得勘定に自分が踊らされていることに気づいていないのです。
それに自分で判断したことが思いとは逆のことは多々あります。

女性だと思って軽くあしらっていたら、旦那はとても怖い人だった、自分はお客だと思って威張る気持ちが、仕事の時に必要以上に自分を卑屈に思ったり感じてしまう、自分には得はないと思ってバカにしていた人が、本当はいい出会いのチャンスを持っていた……………こんなことは世の中にゴロゴロしています。

人は目に見えるものを過大評価して生きています。
しかし、本当の幸せは目に見えません。感謝の心で感じるしかありません。
目に見えるものに振り回される生き方が、その人を不幸にしているのです。

男性であろうと女性であろうと、子供でも大人でも、怖いお兄さんでもやさしいお婆さんでも、お金持ちでもそうでなくても、自分がお客であろうと相手手がお客であろうと同じ行動をすることが、自分の性格を形成してくれ、自分の心の平和を保ってくれるのではないでしょうか。
特に、自分がお客になった時に威張った態度をとる人間を見ると、心の底から可哀そうになってきます。

「お客様は神様です」という歌手の人がいましたが、お金を払う人はそんなに偉いのでしょうか?
レストランで食べる人は作る人よりも偉いのでしょうか?
物を売る人と買う人では、売り手は買い手の奴隷なのでしょうか?
売り手と買い手に優劣はあるのでしょうか?

お金というものは、その価値があるという判断で物々交換の延長として支払っているだけで、世の中を円滑にしていく1つの手段として存在しているだけなのではないでしょうか。
わかりやすく言えば、キャベツ1つとテレビ1台を交換したのでは何かすっきりしないし、キャベツを20個もらってもそんなに食べられないので、便利なお金があるというだけのように思います。

極論すると、お金を持っている人間が一番偉い、私がお金を払ってやっているのだ、という偏見が横柄な態度につながってくるように思います。
そもそも、自分がその金額の価値があると判断して購入を決めたものを、お金が払うほうだけが威張るという行為は、とてもおかしい行為だと気づくべきです。

その店で食べたいと思ったのは自分であって、無理やり連れ込まれたわけではありません。
何かを買うと判断したのも自分であって、無理やり買わされたわけではありません。
決してお金を寄付したわけでも、ボランチィア精神でお金を払ったわけではないことに気づくべきです。

たとえ寄付する行為であったとしても、「寄付してやった」と思うのであれば、寄付しないほうがお互いのためにいいと思います。
自分が物を売っても「買ってくれてありがとう」、自分が物を買っても「売ってくれてありがとう」というお互い様という精神が人を幸せにしてくれると思います。

では、なぜ相手によって対応を変えたり、自分がお客になった時に威張る人が多いのでしょうか?
こういうことをする人間の本質について私なりに考えてみました。
基本的に、人は威張りたいのです、自分はすごい存在だと誇示したいのです、自分は他人とは違う扱いを得たいのです。

しかし、普段そんなことをしていたら周りから人が去っていきますし、逆に明らかに自分が攻撃されてしまいます。
それが、お金を支払うということで「自分には威張る権利がある」と勘違いしてしまうのです。

私の知り合いの添乗員の方が「旅の恥はかき捨てと思っているのか、この添乗員とは2度と会わないと思っているのか、むちゃくちゃなことを言ってくる人が一般社会よりも多い」と言われていましたが、後先考えなければ、自分のわがままを通したいという本能が人間にはあるのだと思います。

他人を下に見ることでしか自分を尊重できない人は、すきさえあれば他人の足を引っ張ろうとするものです。
他人を引きずりおろさなければ自分の心の優越感が維持できないのです。
自分が王様になれば、たいていのことは相手が従ってくれると思えば、確かに想像するだけでいい気持になってしまいます。

しかし、今の日本に王様はいません。
天皇陛下や総理大臣でも自分の欲望や本能を抑えて、理性を持って生きていかなければいけません。
自分の思いがすべて通ると勘違いして育てられた子供は社会では生きていけません。

お金を払った時ぐらい王様気分になって何が悪いのかと思う人もいるかもしれませんが、その反動が必ず自分に向けられてしまうのです。
家では王様気分の子供は、外では自分の思い通りにならない社会がストレスになってきます。

家でも外でも、言うべきことは言い、我慢すべきことは我慢するという同じ態度で生活すれば、社会生活のストレスが減ってくるのです。人間関係のストレスが軽減できるのです。
私がお客になった時に自分がお金をいただくときと同じようにするように心掛けているのは、道徳心というよりは、逆にお金をいただくときに自分が必要以上に卑屈になってしまうのが嫌なのです。

幸せになる原則に、自分と他人を同じように大切に考える「自他同然」という言葉がありますが、自分が売り手になっても買い手になっても同じ対応をすることが、より多くのことを感謝でき、他人を尊重できる生き方をする訓練になってくるのだと思います。
自分の間違った行為や考え方に気づくまでは、その人の不幸は永遠に続いていくのです。

頭の良さと幸せ度

私は、学生時代に頭のいい(記憶力のある)人がうらやましかったものです。
長年、ないものねだりで、記憶力は良いに越したことがない、と頭のいい人をうらやましく思っていましたが、最近では頭のいい人は記憶力がいいために、考えるという行為を軽視してしまうのではないかと思い、自分はあまり頭がよくなくてよかったと思っています(笑)

頭のいい人は、記憶力、成績とかお金とか目に見えるものを重視する傾向があるように思います。
頭のいい人は、自分の成績が良かったので、自分が評価されてきた学歴とか有名企業への就職、持ち物のブランドなど目に見えるものこそ価値があると考えがちなのではないでしょうか?

一方、成績が優秀でなかった人は、自分が評価してもらえなかった、学歴、有名企業、ブランドなどは、手に入れられなかったので、人間の価値や幸せはそういう目に見えることろにはない、というスタンスで、世の中を見る習慣がついてきたのではないかと思います。

私の妹は私より学力はかなり劣りましたが、人間的には私よりも断然優れていました。
そう思うと、「頭がいいってなんだろう?」「学校の成績ってなんだろう?」と考えてしまいました。
まず人は、幸せになるために頑張っています。

頭がいいことで幸せになったり、勉強ができることで幸せになるのであれば、話は分かりやすいのですが、頭が良かったり、成績がいいために逆に不幸へ向かっているとしたら、物事の本質を整理しておく必要があると思います。

まず、頭がいいとか学校の成績がいいというのは、足が速い、力持ちであるという1つの能力に過ぎないということを認識するべきです。
社会に出て、俺は足が速かったんだといつまでも自慢することが滑稽なように、頭が良かったり成績が良かったことは社会に出たら忘れるべきです。

過去の栄光にしがみつくマイナスを認識すべきです。
イチロー選手が国民栄誉賞を辞退したのは、まだまだ過去にしがみつきたくなかったのではないでしょうか?
人は誰でも幸せになりたくて頑張っているのだとすれば、世間がいう、常識に惑わせることなく、自分の考え方や言動は、幸せになるために前進しているだろうかと、自問自答していくことが大切なように思います。

天国人と地獄人

人と接する時に、この人は悪循環にはまっている人か、良い循環で回っている人かを判断するようにしています。
言葉を変えれば、プラス思考の人かマイナス思考の人か、天国人か地獄人かという識別をしています。
善循環の人と話をすればこちらも幸せを感じますが、悪循環にはまっている人と話をすると、こちらの気分も最悪になってします。

天国人の人には、妬み、ひがみ、怒り、怖れがありませんが、地獄人はこれらを持って相手を攻撃してきます。
これは運や人間性というよりは、考え方の違いです。
誰でも天国人と地獄人を繰り返しながら生活しています。
いつも天国人の人もいなければ、いつも地獄人の人もいません。

しかし、天国人の時間が長い人と、いつも簡単に地獄人に変貌する人といます。
地獄人でいる事が平気な人は、自分のイライラを他人に当たる事で発散しようとします。
そんな人に近づいたら、たいていの人は地獄人に引き込まれてしまいます。
新入社員の採用の際には、特に地獄人気質の人は入社させないように気を付けています。
1人地獄人気質の人が交われば、今いる他の天国人気質の人が悪影響を受けてしまうからです。

松下幸之助は、「運のいい人としか付き合わない」と言っていましたが、これは「天国人気質の人としか付き合わない」という事のように思います。
「妬み、ひがみ、怒り、怖れ」のない……というか、意識的にそういうことを遠ざけようとしている人と接することで、自分も善循環で生活していけるのです。

「類は友を呼ぶ」ということわざがありますが、悪循環の仲間入りだけは避けるためには、まずは自分が、妬み、ひがみ、怒り、怖れを遠ざけることが大切かと思います。

負の感情のコントロール

私は日々、気を付けていることがあります。
それは、極力、マイナスの感情的にはならないことです。
なぜなら、人間はいったん負の感情的になったら、コントロールが不可能になってしまう生き物だからです。

この事実に気が付いて、周りの人を冷静に見ていると、面白いぐらいにこの原則が当てはまっているのです。
いったん負の感情のスイッチが入ってしまうと、大人も子供も関係ないのです。
正常な時には、物事を解決したり、いい方向に向かう為に知恵を使いますが、いったん負の感情にスイッチが入ってしまうと、相手を傷つけることが目的になってしまいます。

攻撃の対象が問題の解決よりも相手の人格否定に変わってきます。
それは冷静に見ていると、恐ろしくなってきます。
究極、人が人殺しをする心理も理解できる気がします。

なぜなら、負の感情にスイッチが入っている人は、罪の意識を持たないで平気で相手の人格を殺しにかかっているのです。
肉体は殺していなくても、無意識に相手の精神を殺そうとしているのです。

肉体と精神とどちらが大切かといえば、ある意味、生かした状態で相手の精神を殺そうとすることの方が残酷だと言えなくもありません。
負の感情にスイッチが入るということは、人間が理性を失って動物や鬼畜に変わっていく瞬間ということなのです。

この原則がわかってくると、自分は絶対に負のスイッチを押さないぞ!と意識することがより容易になってきます。
なぜなら、自分が動物や鬼畜に変わりたくはないからです。
自分でコントロールが可能なのは、負のスイッチを入れる直前か、入れた瞬間までです。

私の経験では、入れた瞬間に自分の行為の過ちに気づけば、ギリギリどうにか引き返せます。
それを、どんどん負の感情に入り込んでしまうと、もう逆流に飲み込まれて後戻りをすることは不可能になってしまいます。

そうはいっても、私も人間なので、やはり何回かに1度はこのスイッチを入れてしまいます。
それでも、この原理原則を知ってからは、負の感情のスイッチを入れる頻度が大幅に減ってきました。
「怒らないようにしよう」「感情的にならないようにしよう」と思っている人は多いですが、多くの人は実行できないでいます。

それは、感情にスイッチが入ってから自分をコントロールしようとしているからなのです。
スイッチを入れるまでが勝負なのです。
スイッチを入れようとする瞬間までが勝負なのです。
スイッチを入れようとしている自分を客観的に見れるかどうかが勝負なのです。

負の感情のスイッチは核兵器と同じようなものかもしれません。
いったん押してしまうとあとは後悔するしかないのです。

感情のコントロール

人間にとって、自分の感情のコントロールは永遠のテーマではないかと思います。
人間には、理性と感情がありますが、力関係でいれば横綱級の感情と十両級の理性の勝負のような気がします(笑)
どうあがいても、普通に戦えば理性は感情には勝てません。

しかし、社会というコミュニティーで円満に生活していくためには、理性なくして成立しないのも事実です。
感情が目を覚ましていない時には、理性が人として正しい言動に導いてくれます。
しかし、感情が暴れだしたら、どう頑張っても理性では感情を抑え込むことはできません。
感情は火のようなものなのかもしれません。

マッチやライターやろうそくの灯のようなものを気を付けて扱っているうちは、火は決して怖いものではありませんが、一度それなりの大きさの火になり、どんどん大きくなっていくにつれ、あっという間に、もうどうしようもないレベルに達してしまうのだと思います。

いったん大きな火になってしまうと、加速度的に大きくなっていくのは、感情も火も同じことのように感じます。
すぐに感情的になる人を観察していて感じることは、感情的になる人は

  1. コンプレックスが強い
  2. 被害者意識が強い
  3. 感謝の気持ちが少ない
  4. 自分のことを俯瞰できない

などいくつかの共通項があるような気がします。

1.コンプレックスが強いから、その裏返しとして、自分の正当性をアピールするためにすぐに感情的になってしまうのです。

2.自分は正しいのに、周りの多くの人は間違っている。世の中や社会は何か変だ。自分だけが、貧乏くじをひかされているというゆがんだ見方をしてしまうために、感情的になってしまうのだろう。

3.自分が満たされている人や幸せな人は、感情的になって自分を不幸にするような言動はしないものです。常に何か自分に足りないものやないものに不平不満を言っているから、簡単に感情的になってしまうのでしょう

4.感情的になっている自分を俯瞰的に観察することができれば、そんな自分がかっこ悪いことは一目瞭然なのに、そういう自分を改善しようという努力ができないのは、自分の言動を客観視できないからにほかありません。
社会人として、大人として、成長していくために一番大切なことは、自分の姿を俯瞰できるということではないかと思います。

今のような日本では、体罰、セクハラ、パワハラ、DVと、感情的になった結末は許されない世の中になってきています。
暴力が許されない社会、理性が尊ばれる社会において、「すぐに感情的になる」という性格は致命的でさえあると感じます。

私自身、日々、自分の感情のコントロールには手を焼いています。
感情が大きくなると、お手上げになってしまうので、「予防に勝る治療はない」という原理原則を自分に言い聞かせながら、感情のコントロールに苦心しています。

心安まる世界というのは、自分の身の周りにすぐに感情的になってしまう人が少ない世界なのではないかと感じます。
まずは、自分がそういうお手本のような存在になりたいものだといつも思っていますが、……… 人生は死ぬまで修業ですね。

キャッチボールvsドッジボール

コミュニケーションは、別名、言葉のキャッチボールといわれています。
しかし、多くの場合、キャッチボールではなくドッジボールを仕掛けてくる人が多いです。
キャッチボールは相手がとりやすい球を投げ返すことが目的で、ドッジボールは相手がとりにくいボールを投げて相手を負かすことが目的です。

会話というのは、相手のコメントに敬意を払って言葉を返していくことが基本です。
しかし、実際には、相手のどこが間違っているか、あるいは自分の意見の方がどんなに相手の意見より優れているかをアピールしようとする人が多いのが現実ではないでしょうか。
特に家族や友人など、身近な人ほど話し相手と勝負したがる傾向があるように感じます。

なぜなら、あまり知らない他人にむやみにドッジボールを挑めば、相手は気分を害して「なんじゃこの人は?!感じ悪い人やな~!」となるのでそういう人の周りには人が寄り付かなくなってきます。
身近な人にはそういった遠慮の気持ちが少ない分、理性のブレーキが効いていないので、人間の本心が出やすくなるのです。

人は誰でも自分の存在価値を認めてほしいものです。
しかし、なかなか、人は他人の事を褒めたり認めてくれません。
そこで痺れを切らして、無意識のうちに、他人の意見を否定して自分を相手より上に見せようとしてしまうのです。

初めから、ドッジボールをするのがわかっていれば、お互いにそのつもりで臨みますが、片やキャッチボールのつもりでボールを投げたのに、いきなりドッジボールのような球が返ってくれば受け取る方は困惑してしまいます。

若い時には、相手に議論で勝つことが優秀である、というような受け止め方をされてきました。
ドッジボールの強い人が尊敬に値したように思います。
しかし、社会に出て、ドッジボールの強い人よりも、キャッチボールの上手な人の方が評価されるのです。

ましてや、相手がキャッチボールを投げているのに、いきなりドッジボールを返すような人が尊敬されることはありません。
若い時の名残りで、会話の流れがドッジボールになりがちなのは仕方がないかもしれませんが、そこを理性でキャッチボールのうまい人になっていくのが人から高く評価される1つの要素ではないかと思います。

ドッジボールは相手を負かせばいいのですから、ドッジボールの技術のゴールはあっても、キャッチボールに関しては、どれだけ相手の事を思いやって投げ返してもこれで完璧という究極のゴールはないと思います。
自分の会話は、キャッチボールのつもりがドッジボールになってないかを反省すべき人は多いのではないでしょうか?

人生の質とコミュニケーションの質

「人生の質はコミュニケーションの質と比例する」ということを聞いたことがあります。
人生の質とは、簡単に言うと「幸せ感」だと解釈しています。
コミュニケーションの質が充実している人ほど幸せだということだと思っています。

コミュニケーションには下記の3種類があると言われています。

  1. 言った人は気持ちがいいが、相手が嫌な気分になる
  2. 言った人が嫌な気持ちになって、相手はいい気持ちになる
  3. 言った人も言われた人も両方がいい気持ちになる

1 の例として、独り言やボヤキ、自慢話、威圧的な部下への注意、命令、等々
2 の例として、心にもないお世辞、言うべきことを言わないで我慢する、等々
3 伝えることがお互いにwin-winの関係になれる。言われた人が、言った人の気持ちを理解できるコミュニケーション等々

人は誰しも自分のことが一番かわいいので、常に自分を守ろうという防御反応的な気持ちが働きます。
家族ならまだしも、心を許していない他人なら特に、誰かの言動が、自分を攻撃してくるのではないか?という恐れを抱きながら生活しています。

信頼関係が出来ている人の間では、言葉の中の「意味と価値を省いても誤解が生じない場合もあります。
究極的には、長い夫婦関係で暗黙の了解で「アレ」「コレ」だけで意味が通じることもあります。(笑)
信頼関係が構築されていて、「この人が自分を攻撃してくるはずがない!」という安心感があれば、言葉を省略しても意思疎通ができるのかもしれません。

しかし、多くの人間関係では、そこまでの信頼関係が出来ている場合の方が稀なのではないでしょうか?
「信頼関係が築けている」と思うことは大切なことなのかもしれませんが、それを相手に求めると、誤解の原因になってしまします。

自分が相手を信頼することは自分の意志でできます。
しかし、相手が自分を信用していると思うことは過信につながってしまいます。
相手も自分のことを信用してくれていると思えば、どうしてもコミュニケーションの手抜きをしてしまいますが、相手の信用を損ねていかないためにも、相手が自分のことを完全には信用していない、と思うぐらいの気持ちでコミュニケーションしていくことが信頼関係の維持には必要なのかもしれません。

夫婦や親友との関係においても、「信頼関係が築けている」と思う過信が少しづつコミュニケーションの省略に結びつき、誤解が生じることもあるのではないかと思います。
コミュニケーションの質とは、「何をするか?よりも何のためにするか?」「何を言うか?よりもなぜそういうか?」に意識を向けていくことではないかと思います。

そんなの常識でしょ?!

「そんなの常識でしょ?!」
この言葉を小さい時から何度耳にしたことだろう。
子供の時は、常識がないと言われることは恥ずかしいことなので、こう言われないように勉強したり、こう言われそうな質問は人に聞かなくなったように思います。

大人になって、少しは自分にも自信が持てるようになってから、自分の意見を言ったり、わからないことは素直に聞くようになると、再びこの言葉を言う人間にたまに出会うことがあります。
子供の時は、この言葉を言われることが恥ずかしいことでしたが、今ではこの言葉を言う人間の方が可哀そうになってきます。

今なら、知恵もついてきたので、「そんなの常識でしょ?!」と言ってくる人間をやり込めることもできますが(争いたくないのでわざわざしませんが……)、こういう人間が、人が自由に話しあったり、わからないことを素直に聞きあえる環境を壊しているんだよなと残念に思います。

そもそも「常識って何か?」ということを真剣に考えれば、この言葉ほど簡単に使ってはいけない言葉だという言葉だということに気付くはずです。
医者にとって医学的なことは当たり前の常識です。
しかし、眼科には眼科の常識があり、外科医には外科医の常識があってもいいように思います。まして患者様からしたら、そんなことを常識といわれても困ってしまいます。

主婦にとって「コシヒカリ」はお米の名前だと知っていたり、野菜の値段を把握しておく事は常識かもしれません。
しかし、同じ主婦でも、お米を食べない人や、子供が病弱で料金よりも有機栽培、無農薬にこだわって料金を気にしないで購入している主婦がいたとしたら、その人は常識のない人間なのでしょうか?

日本の総理大臣の名前を知っているのは常識だとしたら、フルネームで知らなければ常識がないのでしょうか?名字だけではダメなのでしょうか?
PCというのはパソコンの略だということを知らないのは常識がない人でしょうか?
そもそも、物事を知らないということは恥ずかしいことなのでしょうか?

人が生きていくうえで大切なことは、多くの知識があるということよりも、お互いを思いやって生きていくということの方がより大切だと思います。
そもそも、すべての事を知っている人間はいません。
社会の中で人が生きていくうえで、人として守らなければならない常識はあります。

しかし、知識として知らないことで、他人から非難されるような常識ってあるのかなと思います。
何か、限定したことを知らないということで誰かに迷惑をかけているわけでもないのに、「そんなの常識でしょ?!」と他人から非難される必要はないのです。

自分が知っていることは常識で、自分が知らないことは知らなくても当然の事、という驕りの気持ちが「そんなの常識でしょ?!」という言葉の影には含まれています。
「そんなの常識でしょ?!」という人は、自尊心がとても強く、常に他人より自分が優れていることを認めさせたい人間なのです。

普段、自分の事をなかなか認めてもらえない人間か、常に自分の事を認めさせたいという欲望が、「そんなの常識でしょ?!」ということで自分の欲望を満たそうとしているのです。
常識というのは何を知っているかということのように思われていますが、本当の常識というのは、自分の持っている知識を消化したうえでどんな生き方をしているかではないかと思います。

学校のテストではないのですから、何かを知っていること自体には何の意味もありません。
その知っている知識を誰かのため社会のため、自分の成長のためにどう生かしていくかが大切なのではないでしょうか?

人間関係を円滑にしていくためには、何かを知っているということには、そんなに価値はありません。
相手の事を思いやる、相手の嫌がることは言ったりしたりしないということこそ常識なのではないでしょうか?
あなたの周りにいる「そんなの常識でしょ?!」というかわいそうな人を発見したら、「他人をおとしめて自分が優位に立とうとしている心の貧しい人を発見」と思って憐れんであげてください。

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