幸せになりたい その4

何かいいことないかな~vs早く芽が出ないかな~

若い頃は、いつも「何かいいことないかな~」と思いながら生きてきていたような気がします。
そんなことを望んでもいいことなんてめったに起こりません。
「何かいいことないかな~」は、言葉を変えれば、「どこかにお金が落ちていないかな~」と考えながら生きていても、お金なんてそんなに落ちているものではないのと同じような気がします。

そんなことを考えながら生きていても、決して前向きな人生にはなりません。
100害あって一利なしのような気がします。
それでもたまには、いいことが降ってわいてきたこともあったような気もします(笑)

「何かいいことないかな~」と思いながら生きていて、たまたま「ツイてる!」と思ったことが起きても、次には「もっといいことが起きないかな~」と望んでいたような気がします。
結局、欲望にはきりがなくて、どんどん出来事に感謝できない他力本願、運任せの人間に近づいていき、不幸せの人生に一直線だったような気がします。

その後、こんな生き方や考え方では自分が不幸になってしまうことに気が付いて、「何かいいことないかな~」は自分の中でのNGワードにしました。
その代り、「何かいいことないかな~」と言いたくなった時には、「早く芽が出ないかな~」は、ぎりぎりセーフワードだと思っています。

「何かいいことないかな~」は他力本願の運任せですが、「早く芽が出ないかな~」は自分が蒔いた種の結果を願うことだから、少しは前向きな考え方だと思っています。
理想としては、「早く芽が出ないかな~」と過去の努力の結果を振り返るのではなく、どんどん新しい種をまき、芽が出ることを忘れて、次の努力をしていくことだと思っています。

種をたくさんまいてきちんと水を上げていれば、その中の芽のいくつかは必ず芽を出します。
一個の種しか蒔いてなくて、「早く芽が出ないかな~」とじっとしているから、時間が経つのが長く感じてしまうのです。

気づいたらいつの間にか芽が出ていた、期待していなかったけど結果的にいいことが起こった、という人生であるために、日々、小さな種を植え続ける生き方をしていきたいと思います。

幸せも不幸も伝染する

幸せも不幸も伝染します。
幸せな人の周りには幸せな人が集まり、不幸な人の周りには不幸な人が集まります。
類は友を呼ぶのです。

幸せな人も交通事故のように、本人が望まなくても1日に何度も不幸な人と接触しますが、幸せな人は不幸な人に不幸ウィルスをうつされそうになっても、対処の仕方を知っていて、短期間でまた正常の幸せな状態に戻れるのです。

逆に不幸せな人がたまたま幸せな人と出会えても、幸せな人の足を引っ張ろうとしたり、その人をねたんだり陰口をたたいたりするので、幸せな人は不幸な人からは離れてしまうのです。
人生は、自分の考え方の結果が形となって現れているのです。

そうは言っても、いくら幸せな人でも不幸のウィルスをしょっちゅう与えられると、少しは感染されてしまいます。
そのために、不幸ウィルスの少ない環境で生活していくことが、幸せを維持する最も簡単な方法なのです。

私の職場には幸せな社員がいっぱいですので、この中にいるだけで、周りの人も自然に幸せを実感できるのです。
逆に不幸な人の中にいて、自分だけ幸せを感じることは不可能なのです。
幸せな人は「感謝、思いやり」に充ち溢れ、不幸な人は「不満、妬み、怖れ」に充ち溢れているのです。

「悪貨は良貨を駆逐する」ということわざがありますが、幸せな人間になるために一番確実な方法は、幸せな人の中に飛び込んで素直な気持ちで「感謝する気持ち」を真似ることです。

世の中は不公平か?

結論から言うと目に見える形としては、世の中は不公平です。
生まれた時から顔も違えば、IQも違います。お金持ちもいれば、そうでない人もいます。
しかし、目に見えないものに関しては、世の中は、公平にできていると思っています。
お金、健康、容姿、仕事など目に見えるものには、個人、個人で必ず差があります。

しかし、その差と幸せの程度とは必ずしも一致しません。
健康だった人が、事故で体に障害を持った時に、現実を受け入れるのに時間はかかりましたが、受け入れた後に健康だった時より今の方が幸せだという事を言われていました。

それは、他人の優しさ、思いやりなどの「愛」を感じる力が、健康な時より強くなったからだと言われていました。
目に見えるものを追及しても、その先にはもっと大きな欲望が待ち受けていて、そこには満たされる気持ちがありません。本当の幸せはないのです。

しかし感謝する気持ち、「愛」を感じる気持ちが強くなればなるほど、その人は幸せになれます。
人間は、意識していない時には、損得の感情で流されやすくできています。
しかし、本気で幸せになりたいのであれば、意識的に愛を感じる生き方を選んでいかなければいけないのです。

愛を感じる生き方とは、自分が不公平だな、恵まれていないな、損しているな、と感じる時にこそ、育まれるものだと思います。
自分が損していると思える時にさえ、それを受け入れて、さらに前向きに考えられる事で、自分はツイテいるなと思える時間が増えていくのです。
感謝の程度もより深くなってくるのです。

日々の事実や出来事をコントロールする事はできませんが、自分の受け止め方はコントロールできます。
出来事は同じでも、プラスに考えられる人とマイナスに考えてしまう人がいるのです。
その割合は、悲しいかな、マイナスに考えてしまう人が大半なのです。
普通に生きている限り、大半のマイナスの中に入ってしまうのです。

プラスに考える人間になるには、自分で「愛」を追求する人生を生きていく決意をしていくしかないのです。
損得勘定をなくす必要はありません。なくすことは不可能です。
100%損得勘定で生きる事に問題があるのです。
「愛」を求める割合を1%ずつでも増やしていく姿勢が大切なのだと思います。

そして本当の幸せは、目に見えるものではなく「愛」のパーセントが多い人ほど幸せな人生なのです。
目に見えるものは不公平でも、目に見えないものは公平なのが人生なんだと思います。

正直者は得をする

多くの人が「世の中は正直者がバカを見る」のではないかと考えたことがあるのではないでしょうか。
私自身、かなり長い間こう思っていました。
世の中は「ゴネたほうが得する」のではないかと感じて、無理してゴネようとしたこともありました。

短期のスパンで見れば一見得しているように見えることも、長期のスパンで見れば、やはり正直者は損しないようになっています。
食事をしに行って、目の前でゴネている人が料金を安くしてもらったり、文句を言った人への対応が、特別丁寧になったり、そういう事例を見るたびにゴネる態度をできる人が少しうらやましかったものです。

しかし、そういう人は、他人を威圧することで自分が得したと感じ、その後も他人を威圧して自分だけ得しようとし続けるのです。
その態度で相手が屈しなければ、さらに威圧感を強めようとしてきます。
極論すれば、それはまるで暴力団の世界のようになってしまいます。

その行きつく先は、容易に想像できるのではないでしょうか。
ゴネて得するのはその場だけです。
一見得したように思えても、目に見えない多くのものを失っているのです。

人間関係で一番大切なのは、信頼感や安心感なのです。
他人を威圧して思い通りにコントロールすることよりも、信頼関係の強い人間関係を維持していくことの方が大切なのです。
やはり正直者は最終的には得をするのです。

ギャフンと言わしてやりたい

先日休みの日に1人でランチをしていると、隣の女性2人組がわがままな上司のことを、「○×さんのことを、いつかはギャフンと言わしてやりたいわね」と会話されていた。
どの世界にも、ギャフンと言わせてやりたい存在の人はいるんだろうな~と苦笑いしながら聞いていました。(笑)

でも最近意識していることは、ギャフンと言わせる役目は神様の仕事だということです。
自分に嫌なことをされたら、同じぐらいの仕返しをしてやりたい、と考えるのは人間として自然のことのように思います。

でも仕返しをしてスッキリするのは一瞬だし、大人の世界ではなかなか仕返しできるチャンスと言うものも少ないように感じます。
へたすると、犯罪になってしまいます(笑)

「何がなんでも仕返ししてやる」と時間とエネルギーを無駄に浪費するよりも、その人の生き方が間違っていれば、神様はその人に「もしもし、貴方の生き方、考え方は間違っていますよ」と言うことを何かの出来事を通じて、その人に伝えていくものだと思います。
その出来事が、人間から見れば「ギャフンと言う痛い目」に映るのだと思います(笑)

世の中の仕組みとして、人は皆、自分の魂のレベルを上げていくためにこの世に生を受けているのだと思っています。
他人を不快にするようなことをしている人は、魂のレベルを上げるために、神様がその人に試練を与えてくれるのだと思います。

前向きに生きている人は、その試練をプラスに受け止め、その問題解決に当たりますが、自分勝手な生き方をしている人は、目の前の問題に不平不満を言いながら、いつまでも神様から提示された問題が解けないので、その後も同じ問題の試練を与え続けられるのだと思います。

前向きに生きている人は、1つ1つの問題を解決して、次のレベルの問題にも前向きに向き合えるのが、不平不満を言いながら神様から提示された問題から逃げ続けている人は、いつまでも自分だけ「ついていない!」「最悪!」と感じながら生きていくのだと思います。

誰かにギャフンと言わせたいと感じた時に、「それは神様の仕事だ!」と思えることで、自分は自分の目の前の問題を解決することに集中できるのではないかと思います。

無期不幸

人間関係において、世の中には理不尽なことを言い通す人がいます。
モンスターピアレンツ、クレーマー、DV男、独裁者、………
日常生活においての悩みの多くは、人間関係の悩みが多くの部分を占めていますよね。

私は、「人は幸せになるために生れてきた」と思っています。
それなのに、幸せになる努力をしない人は、日々生きているのがつらくないのだろうかと思います。
その典型的なタイプの人が、怒ったり、怒鳴ったり、相手を威圧することで常に自分が優位な立場に立とうとしている人です。

人間には、力で相手を抑えつけようとする人と、話し合いでその意味、自分の意図をわかってもらって解決しようとする対応があると思います。
なにがなんでも自分の意見を通そうという人は、力ずくでも相手を抑えつけようとか感情的になります。

そういう人の多くは、家庭環境や職場環境において、自分がそういう風に抑えつけられて育ったからその反動で、同じように相手を力で抑えつけようとする人が多いみたいです。
相手が誰であろうと、力ずくで相手を従わせても、そのしわ寄せや反動が、必ずいつかはやってきます。

力による抑制の究極が戦争です。戦争しか選択肢がないから、戦争になっているのかもしれませんが、戦争では本質的な物事は解決しないのではないでしょうか。
表面的には、相手を動かせたように見えても、力だけでは人を動かすことはできないのです。

感情的な力の誇示によって、優位な立場に立とうとするタイプの人と出会ってしまうと、とても不愉快な気分になってしまいます。
そんな時に、少しでも自分の心を軽くする魔法の言葉があります。

それは自分が裁判官になって、その人に判決を下すのです。
裁判で「死刑」「無期懲役」などのように、力で相手を自分の思うように従わせようと理不尽なことを言い通す人は、幸せになることを諦めているのですから、永遠に不幸である「無期不幸」の判決を下すのです。

その人が自分の生き方や考え方を変えるまでは、不幸は続くのですから、心の中で「あなたは無期不幸に処する」と判決を出してあげるのです。
もちろん、「生き方や考え方を改善した場合には、不幸の期間は短縮させるでしょう」という執行猶予は付けておいてあげてください。

というか、マイナスのことを必要以上に深刻に考えないで、上記のようにゲーム感覚で軽く考えることで、自分の心の乱れに踏ん切りをつけて、1日も早く前向きなことに意識を向けていくことが大切だと思います。
他人は変えられないが、自分の感情はコントロールできるのです。

人間万事塞翁が馬

人間は、ある程度満たされている時には足りない物を捜して不満を感じて、逆に、満たされていない時には、ありふれた幸せに敏感になるのではないだろうか?
人の欲求は満たされることはありません。
もっと欲しいという気持ちになれば、どんなものでももっと欲しくなります。

皮肉な事に、ある程度足りていると、ない物ねだりで足りない物を捜し、全然足りない時には、普通である事で幸せを感じます。
人間にとってどちらが幸せなのか分らないです。

人間の幸せには、感謝の気持ちが不可欠です。
感謝するとは幸せを感じると同じ事ですから、たくさん感謝できる人間がたくさん幸せでもあるのです。
満たされ始めると「もっと」を追及してしまう人間の性は、どうすれば解決できるのでしょうか?

私の考えでは、目に見える物に惑わされない自分の価値観を持つことではないでしょうか?
「人間万事塞翁が馬」ということわざがありますが、目の前で起きている現象は幸せとは関係がありません。
幸せだと思っていた事が不幸の始まりだったり、ついていないと思っていた事が、幸せへのチャンスだったりする事はたくさんあります。

同じ出来事に対しても、幸せだな、ついてるな、チャンスだなと前向きに思える思考回路を持つことが幸せへの近道ではないでしょうか?

人は方向性が見えていて、出来事の意味と価値がわかれば前向きになれます。
1つ1つの意味と価値を見つけるためには、いろんな事に対して「何の為に……」に対する自分なりの答えを見つけていくことのように思います。

自分が仕事をするのは何の為だろう?
何の為に生きているのだろう?
何の為に今の職種についているのだろうか?
何の為に掃除をするのか?
自分が幸せを感じるのはどういう時だろう?それはなぜだろう?
…………

人間は多くの部分を視覚で判断しますので、目の前の現象に惑わされないという事はとても難しい事かもしれませんが、「星の王子様」の本の言うとおり物事の本質は「大切なものは目では見えない」のですね。
他人がなんと言おうと、目では見えない価値を自分の中で確信している時には、幸せを感じられるのではないでしょうか?

自分が変わろうとする人vs他人を変えようとする人

世の中には幸せな人間とそうでない人間がいます。
その2種類の人間のどちらになるかの違いは、その人が「自分が変わろうとする人間」であるか「他人を変えようとする人間」であるかの違いのように思います。

自分のほうが変わろうとする人間は、いつかは必ず幸せになりますが、他人を変えようとする人間は、その時点から不幸がついて回ります。
他人と過去は変えられません。
その変えられないことを、一生懸命変えようとするのですから、永遠にその人の心が満たされることはありません。

常に何かしらの不平不満で一杯になります。
その人が、自分が変わろうと気づくまで不幸は続くのです。
他人を変えようとすることは、言葉を換えれば、「自分は一切間違っていない、自分は絶対正しい」ということなのです。

「自分は間違っていない、自分は正しい」と思うこと自体は有害ではないと思います。
しかし、それがエスカレートして、だから相手が変わるべきだと自分の価値観を強要することは、間違っていると思います。
相手が変わるかどうかは、その人自身が気づくまで変わらないのです。

多くの物事は、一方が100%悪いということはありません。
どちらかがより悪いという比較の問題で、どっちのほうがより正しいかという基準で判断されてしまいます。

「泥棒にも3分の道理」ということわざのように、泥棒でさえ自分の言い分があるのです。
そんな時に、相手がどんなに悪くて、どう変わるべきかを延々と説教しても何も変わらないのです。
どんな時でも相手を非難、攻撃する代わりに、自分の成長のために改善できることがあればそれを取り入れていくことが幸せへの近道なのだと思います。

相手を変えようとする努力を、自分が変わることで自分が成長すればいいのです。
相手も、本気で幸せになりたいと思った時に、他人を自分の価値観に変えようとする行為の無意味さに気づくのです。

他人を変える労力を自分が成長する方向に向け、その無言の後ろ姿に相手が何かを感じて、その人が自主的に変わっていくというのが、ベストのいい循環なのだと思います。
相手が変わるかどうかは、その人が気づくかどうかの問題なので、雨の日を無理やり晴れさせようと努力することと同じぐらい無意味なことなのです。

自分が幸せになりたければ、自分のほうがより成長、改善していくことだと思います。
そういう人間が増えていくことで、社会が平和でみんなが住みやすい世の中になってくるのだと思います。
日本の今の時代の流れは、このま逆に進んでいるように感じるのは、私だけでしょうか?
私も幸せになりたいので、自分の方が変わるように頑張ります。

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