幸せになりたい その5

心にもない事を言おう

「心にもない事を言う」と聞くと偽善者、いい加減な人、といった悪いイメージを持つのではないでしょうか?
私の例でいいますと、私が開業当初赤字で大変な時に、「頑張れよ」「早く軌道に乗るといいね」と知り合いに言われた時に、ひねくれていた私は「この人は本当に本心でそう思っているのだろうか?」「人のことを本当に心配してくれているのだろうか?」と疑心暗鬼になったものです。

また、友人の結婚式で泣いている人を見て、自分が結婚していて幸せな人は分かるが、自分が結婚していなかったり、彼氏がいない人は「本当に心からおめでとうと言っているのだろうか?」と斜に構えた見方をした時期があります。
私の中で、長い間、心にない事を言う人は、心にない事は言わない人以上にずるい人だと思っていました。

そうして長い時間がたって、私の中で、心にない事を言う人は、心にない事は言わない人よりも立派な人に変わってきました。
と言いますのも、心に思わなければ言ったらいけないとなれば、人間的に成長するまで、相手を思いやる言葉を言えなくなります。
心にあろうとなかろうと、口に出すという行為に意味があると思えてきました。

心にもない事を言う人には2種類あります。
相手から何かをしてもらおうと思って、心にもない事を言って点数を稼ぐ人と、今は心にもないけど、いつかは心からそう思えるように成長しようと思って、相手を思いやって頑張って発言している2タイプがあります。

前者の様な、自分のメリットの為に心にもない事を言う人は、偽善者ですが、いつかは心からそう思いたいと思いながら、相手を思いやる言葉を言う方は、時間がたてば、必ず心からの思いやりの言葉が発せられます。
心が先か言葉が先かと言われれば、多くの凡人はまず言葉を先に思いやりと愛に満ちた言葉にしていく事が大切だと思います。

心にないという言い訳で何も言わないよりは、例え心に思っていないとしても「ありがとう」といえば相手は嫌な気持ちはしないものです。
まずはいい言葉を習慣にして、気持ちは後から追いかけていくと信じる事で、時間がたって気付いた時には、成長している自分に気付くのではないかと思います。

そして言葉に伴って、心が後からついてきて心と言葉が一致した時には、相手が感動するような言動が出来る人間になれるのではないかと思っています。
私自身、まだまだ、言葉と心が一致していないので、その境地は想像でしかありませんが、いい言葉を習慣にして、他人を思いやれる人間になれれば、日々の幸せが増すのであろうなと思っています。

外づらと内づら

「外づらはいい人なのに、家では別人のようだ」という話をよく聞きます。
外では他人の評価を気にして、すごく人当たりのいい評価の人も、家の中では素の自分が出て外での評価とは全く違う評価になることがあるのだろう。
しかし、これは考えてみれば当たり前の事であって、外づらと内づらが全く同じ人は世の中に存在しないのではないかと思います。

というのも、外の服装と家での服装が同じ人がいないのと同じ原理だと思います。
家から外に出る時には、他人に失礼のないようにとか、他人によく見てもらいたいという気持ちがあることは、全然批判されることではないように思います。
外で着る服を家の中まで着たり、家の服で外出する方が滑稽に感じます。

しかし、生活態度においては、外と家の中で大きな違いがある人は、裏表のある人間のように悪く受け取られがちです。
服装と生活態度の違いにおける外づらと内づらとの違いで、世間一般の受け止め方の違いはどこにあるのだろうと考えてしまいました。

服装においても、自分の優越感を満たすために自分はお金持ちだとか、自慢したいがための格好は、見る人に嫌悪感を抱かせることがありますが、相手に不快な思いをさせないために清潔感を保つ身だしなみは、他人にも好感を持ってもらえないまでも、決して不快感を与えることはないと思います。

服装にしても言動にしても、自分のためにしていることなのか、他人を思いやってしていることなのかで、相手の受け取る印象も違ってくるのではないでしょうか?
外づらと内づらに話を戻しますと、家の外に出れば、周りは全て他人なので、家族以上に気を使って当然だし、それがお客様なら自分の持てるすべての気遣いをして当然だと思います。

しかし、家庭に帰ってまで、家族にお客さんへの対応と同じような対応をしていくことは不可能だし、家では外でのエネルギーを蓄えるために、色んなスイッチがオフになる事も仕方のないことのように思います。
お客様に対して、社員に対して、お年寄りに対して、何か困っている人に対して、全然知らない人に対して、etc……それぞれの相手によって、こちらの思いやりやエネルギーに差があって当然だと思います。

しかし、それぞれの相手に対しての一般的な許容範囲を大きく下回ると、色んなひずみや批判の対象になってしまうのだと思います。
家庭においても、家族といえども甘える限界もあるでしょうし、相手を思いやる許容範囲というものがあるのだと思います。

外づらと内づらが全然違うと批判される人は、外では必要以上に他人の評価を気にして生きているが、家族に対してや甘えられる人間に対しては、評価を気にしないあまり、相手の気持ちの許容範囲を超えた自己中心的な言動が目立つから、外と家のギャップが激しい人は、周りから批判されやすいのではないだろうか?

私の好きな作家の曽野綾子さんが「いい人をやめると楽になる」という本を出していますが、これは決して、わがままに生きろという意味ではなく、他人の目を気にした生き方をして他人の評価に流されないで、自分の中での相手を思いやる気持ちに正直に生きなさいということだったと思います。
同じような行為なのに、自分のコンプレックスから「いい人」を演じているのか、相手への気遣い、思いやりから結果的に「いい人」に見えるのかは大きな違いのような気がします。

小さい子供の時代から長年、他人と比較され、多くのコンプレックスを抱いて大人になり、他人の目を気にして『「いい人」にならなければ、他人から認めてもらえない』という強迫観念で、無理をしながら生きている人は、外づらと内づらが大きく違ってくるのだと思います。

コンプレックスは誰にもあります。
しかし、コンプレックスの強過ぎる人は、他人に優しくできません。
自分のコンプレックスをコントロールしていくために、自分が他人よりよく見てもらうか、他人が自分より劣って見えるかのどちらかで自分の不安定な気持ちをコントロールしようとします。

いじめも同じ原理から発生しています。
他人に優しくできる人間になるためには、まずは自分のことを好きにならなければなりません。
自分のことを好きになるためには、他人の目を気にして「いい人」を演じるのではなく、自分のことを好きになるために思いやりのある言動をしていかなくてはなりません。

そのためには、家庭の外であろうと、家の中であろうと、自分の良心に従って、思いやりの気持ちに正直に生きていくことが大切なのではないかと思います。
コンプレックスの緩和の仕方は、長くなってしまうので、またいつかお話しさせていただきます。

拷問と修業

自分の経験から言って、院長にとって、患者様とのトラブルや話の食い違いほどストレスになることはないのではないかと思います。
人間は、基本的に争い事やトラブルを好みません。
誰しも平和で穏やかに生きたいと願っているのです。

しかし現実には、生きている限り、いろんなトラブルや予期しない事件は必ず起こるのです。
どんなに静かに、おとなしく生きていても、他人にとっては自分の思いと違う場合もあるのです。
医院のトップとして、日々経営していくことは、つらいことにも出会います。

人生全般の困難を、避けよう、避けようとしていた時期もありました。
しかし、いくら逃げても、人生において、つらいことを避けて生きることが出来ないのですから、前向きにとらえていくしかないのです。

同じつらいことが、ごう問になるか修業になるかはその人の考え方1つなのです。
例えば、受験勉強をする場合でも、その後に楽しい大学生活や社会生活が待っていると思うか、ただ親がガミガミ言うから仕方なしに勉強するかでは、同じ勉強でもごう問と修業の違いがあるのです。

また、スタッフの問題が生じた時に、「なんで俺だけこんな目に合わないといけないんだ」と思うか、「このトラブルをきっかけにきちんとした就業規則を作るぞ」と前向きに考えられるかで、拷問にも修業にもなるのです。
結論を言いますと、トラブルが解決した向こう側に、自分に対するごほうびを設定できればそれは修業になりますが、ごほうびが思いつかないとごう問になってしまうのです。

これは考え方の習慣なのです。
つらいなと感じた時には、その先にはどんなごほうびがあるかを考える事が出来れば、気持ちは断然楽になってくるのです。

全ての困難がご褒美に思えるような考え方が出来れば、毎日楽しくてしょうがないのだろうなと、想像するだけでワクワクしてくる今日の頃です。
星の王子様の「本当に大切なものは目では見えない」と言いますが、見えない物に気付く事が生きていく上での成長なんだと思います。

感謝する心

私の知っている、事故で障害を負った2人の人は「事故は私の人生での最大のプレゼントだ」と言われていました。
「障害を負う前の人生よりも、障害を負った後の人生の方が幸せだ」と言い切られるのです。
初めは、この2人の人はとてもプラス思考の人なのだろう、ぐらいに思っていました。

どう考えても、健康な時よりも、障害を負った時の方が幸せだという事は私には理解できませんでした。
しかし、今では、2人の方は、体の不自由と引き換えに「感謝する心」を与えられたのではないかと思うようになってきました。

障害をおってからは、何をするにも他人の力を借りなければなりません。
自分一人では全ての事を出来ないので、小さな事にも感謝の気持ちが持て、全ての事がありがたく感じられるのではないかと思えるようになってきました。

日々の日常が感謝にあふれているのだと想像できます。
幸せになる為には感謝の気持ちは不可欠であるという事は、多くの人は左脳では理解しています。
しかし、しょせん左脳どまりなのです。
上記の障害を持った方は、心から感謝する日常を送っていて、感謝するという事が右脳にしみ込んでいるのだと思います。

凡人の自分が感謝する習慣を身につけるためには、小さな1つ1つの事を丁寧に意識して感謝していくしかないように思います。
左脳の情報を右脳に移し替えるには、習慣に勝るものはないと思います。
私も「感謝する心」を手に入れるために小さな習慣を積み重ねていきたいです。

否定しない生き方

「私はどうして他人の意見を素直に受け入れられないのだろうか」と自分で反省してしまいます。
それが本能であって、それを克服する事が幸せになるヒントでもあるように思います。
人の話、新聞、TVからの情報、政治家の方針………
何かの情報が頭に入ると「でも……」といったん否定してから自分の意見が頭をよぎります。

尊敬には自尊心と他尊心がありますが、多くの人にとって、自尊心は自然に持つことができますが、他尊心は自分で意識しないと持つ事が出来ないのではないでしょうか?
他人の意見や考え方を否定する事は簡単です。

完璧な意見や方針などありません。
どんなものでも例外や欠点は捜せます。
重箱の隅をつつこうと思えば必ずつつけるのです。

相手を否定して、どんなに自分が正しいかを言葉にすればその瞬間の気分は良くなります。
しかし、否定された相手はいい気分がしませんし、自分の中でも時間がたってくるにつれ、気分がすっきりしない場合の方が多いのではないでしょうか?

心の中では、相手を否定している自分を好きになれない愛に満ちた自分も存在しているのです。
競争、競争で育てられた学生時代を過ぎて社会人になっても、それまでの名残りとして、人と比べる生き方を無くすことは難しいのです。

人と比べる生き方をすれば、自分が上がるか、相手が下がるかのどちらかになります。
自分が上がるのは大変ですが、他人を下げる事は簡単です。
こういう心理が働いて、無意識で相手の足を引っ張ったり、相手を否定する発言をしてしまうのではないでしょうか?

長い時間かけて身についた悪い癖は、同じぐらいそれを取り除くのに時間がかかります。
競争自体を否定して、運動会で順位をつけないとかいう事は賛成できませんが、競争と同じくらい協調を大切にして生きていく事が、幸せになる為には不可欠な事のように思います。
そういう意味で、他尊心を育む一番の方法は、普段の日常において、他人や周りの状況を否定しない生き方ではないかと思います。

何かを言われて「でも……」と否定する習慣を「そうだよね。そういう意見もあるし、こういう意見もあるよね。……」とまずは相手を受け入れる習慣に変えていきたいと思います。
「自分が自分が……」という人は間違った自尊心が強い人です。
「どうせ私なんか……」という人は間違った他尊心が強い人です。

心が平和で幸せな人は、自分も素敵だが他人も素敵という、自尊心と他尊心のバランスが取れている人ではないでしょうか?
今の私の課題として、競争から協調へと進路を変えていくためには、否定しないで受け入れる生き方をしていきたいと思います。

上記のように、自分が否定しないで受け入れる生き方を目指せば、他人が自分を否定した時にも腹を立てることなく、相手が本能のままで生きていて可哀想だなと俯瞰した見方が出来るおまけまでついてくるのではないでしょうか?

目の前の「現実」は、過去の自分の生き方の「結果」である

ジェームスアレンの「原因と結果の法則」という長年にわたるベストセラーの本があります。
その本では、
「今目の前に起きていることは、すべて過去に自分が蒔いた種の芽が出てきたものである。すべての現実は起こるべくして起こっているのである。」
ということを書かれています。

人は物事が思うように運んでいかない時に、原因を他人や環境や運命のせいにしようとします。
他人や環境など自分がコントロールできないことに原因を求めれば、自分は一切変わらなくていい、努力しなくていいので楽なのです。

一方、起こることはすべて、これまでの自分の生き方、考え方に起因していると考えれば、少しずつでも自分が変わっていくしかありません。
長年、仕事を通じていろんな人と付き合って感じることは、成長する人は素直だということです。
素直とは自分に矢印を向けようとする人のことだと思います。

何か注意したり、指摘するとすぐに言い訳をしてくる人は、「自分には責任がない!」「自分は変わるつもりはない!」ということをアピールしていることになります。
言い訳すれば、その場はどうにか逃れることができます。

しかし、自分の中の本来の根本原因を解決していないのですから、また同じような問題に直面することになります。
そういう失敗を何回か繰り返したときに「あれ!?同じことが何度も繰り返すのは、もしかしたら自分が変わるしかないのだろうか!?」ということに自分で気づくまで、人は変われません。

他人から指摘されるのではなく、自分の中で「原因は自分の中にある」ということに気づくまで、神様は根気強く同じ問題をその人に投げかけます。
人間界の相手には言い訳をして対処療法で逃げ切ることができても、天の上の神様はその人のことを思って根気強く、本来の原因に気づかせようとします。

人の一生は、魂の成長というジグソーパズルを埋めていく作業で、神様は問題という形でジクソーパズルのピースを私たちに渡し続けます。
ピースを渡されても「これは自分のところに合うピースではありません」といって神様にピースを突き返しても、私たちがそのピースの当てはまる個所を見つけるまで、神様は笑顔で同じピースを渡し続けます。

また、神様はチャンスを試練というお面をかぶらせて私たちにプレゼントしてくる、とも言われています。
ピースにしろチャンスにしろ、「原因は自分の中にあるかも!?」という謙虚な気持ちを持たなければ、この世は苦労の絶えない地獄に見えてしまいます。

全てのことは自己責任。
全てのことには原因があって結果がある。
自分の人生のシナリオはすべて生まれてくる前の自分自身で脚本したものだ。
ということを信じることで、言い訳をせずに自分に矢印を向けるようになってくるのではないかと思います。

天使と悪魔

私の中には天使もいれば悪魔もいる。
できる事ならいつも天使の自分でいたい、
でも……

自分に余裕がなくなってくると、悪魔の自分が顔をもたげてくる。
例えば
自分を否定された時
信じてた人間の信じたくない現実を見た時
忙しすぎて気持ちに余裕が持てなくなった時
気持ちだけが焦って、結果を早く求めてしまう時
時間がないのに子供たちがいうことを聞かない時
未来に不安を感じた時
病気になった時
我慢の限界を超えた時
…………

天使の自分は他人にも思いやりの気持ちが持てるのに、悪魔の自分は自分のことで精いっぱいで、他人を責めたり、他人の足も引っ張りたい衝動に駆られる……
天使の自分は問題を解決しようと頭を使うが、悪魔の自分は、相手の人格を攻撃してより傷つけようと頭を使っている……
天使の自分は生きることは楽しいが、悪魔の自分は生きることは苦しいと感じる……

神様はなぜ、人間に天使の部分だけを与えなかったのだろう?
悪魔の自分がいる事を知ることで、どんな状況でも謙虚な気持ちにならせるためだろうか?
悪魔の自分が少なくなったり、顔を出さなくなることを成長と呼ぶのだろうか?
悪魔に自分の誘惑に打ち勝つことを克己心というのだろうか?
「馬鹿とはさみは使いよう」ということわざがあるが、悪魔の存在も使い方で意味と価値のあることなのだろうか?
悪魔の自分を受け入れて共存していくのが正しい生き方なのだろうか?

妬みと嫉妬

世の中は、なぜ他人の足を引っ張ろうとする人間でいっぱいなのだろうか?
人はまっすぐ進んでいけば、どの人もいいものをたくさん持っています。
それなのに、世の中はまっすぐに進もうとする人を邪魔する人や出来事でいっぱいなのです。

正しい事やいい事をしている人を見ても、点数稼ぎとか、煙たいとか、他人と違う事は認めたくない気持ちが働きます。
子供時代を思い出しても、目立つ人間は、仲間外れをされたり、白い目で見られることが多いです。

仕事においても、頑張っていない人が頑張っている人をうっとうしく思った言動をします。
そこには、正しいから素晴らしい、頑張ってるから素晴らしいのではなく、周りと同じ事が素晴らしいという不文律があります。
良い事でさえ、調和を乱す事は受け入れられにくいのです。

自分だけ目立つ事は許さない、という暗黙の掟があります。
学校の先生にしても、政治家にしても、どの世界でもいい事をしようとしても目立つとたたかれます。
「出る杭は打たれる」ということわざがありますが、周りと違う事は非難の対象になってくるのです。
「妬み、嫉妬」は人間の本能に埋め込まれたものなのでしょうか?

「妬み、嫉妬」がその人を不幸にしてしまいます。
妬まない、嫉妬しない為には、自分は幸せだな、恵まれているな、と感謝する習慣を身につけていくしかないのではないでしょうか。

自尊心と他尊心のバランスが取れれば、人を妬まなくても幸せでいられるように思います。
「イチローは20億円稼いでいるんだって、すごいね」「でも僕だって、イチローに負けないぐらいこんなに幸せだよ!」と言い切れる生き方をしたいものですね。
目に見える物で他人と比べていたら、全ての物を手に入れることは不可能ですから、どうしても持っている人間を妬んでしまいます。

イチローだって、多くの物を代償にして今があるけど、得たもの以上に失っている物も多いはずです。
比べる基準は目に見えるものではなくて、幸せかどうかで比べれば妬みや嫉妬は減ってくるのではないでしょうか。

「幸せ」になる為には「感謝」の気持ちは不可欠です。 感謝する為には、「自分の事が好き」になれなければなりません。
自分の事を好きになる為には、好きになれるような「習慣」を身につけなければなりません。

そういう習慣を身につけるためには、まずはいい事を考え、いい事を口にする事を習慣にしていくことからスタートするしかないと思いますが、皆さんはどう思われますか?

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