幸せになりたい その3

優越感vs劣等感

人間は無意識レベルで何気なく生きていると、他人と比較をして生きているように思います。
そして他人よりも優れた点を見つけては喜び、他人より劣っている点を見つけては落ち込み一喜一憂してしまいます。
できれば優越感だけを感じて生きていきたいので、劣等感を感じそうになったら本能的にその人の足を引っ張ろうとする気持ちが芽生えてきます。

その最たるものが「いじめ」だと思います。
いじめは自分が優越感を感じていたいから、する卑劣な行為だと思っています。
いじめの根本的な問題は、他人との比較です。
他人と比較するから優越感と劣等感を感じてしまうのです。

人間は本能と理性があります。
本能で生きれば、他人と比較して生きてしまいます。
理性で生きれば、他人と比較するのではなく、過去の自分と比較して生きていけます。
言葉を変えれば、感情で生きれば他人と比較して生き、理想を目指して生きれば過去の自分と比較して生きていきます。

私の今年の最大のテーマは、「感情で生きないで理想で生きる」ということです。
他人と比較して一喜一憂するのではなく、自分の成長に目を向けて一歩一歩確実に前進していることを喜んでいきたいと思います。

他人と比較して優越感を感じた時は、優越感を感じる考え方は、明日は劣等感に代わることを肝に据えて反省し、他人と比較して劣等感を感じた時は、相手を妬むのではなく、その人の目に見えていない努力に敬意を向けるようにしようと思います。

そして、他人と比較しないで自分の過去と比較する生き方を習慣にできるように、意識的に理想に向かって生きていきたいと思っています。
一喜一憂する生き方を戒め、常に安定した気持ちで生きていきたいと思っています。

コンプレックス

人は誰しもコンプレックスを持っています。
しかし、そのコンプレックスが他人を不快にする人と、コンプレックスの存在を意識させない人に分かれるような気がします。

人は誰しも自分が一番かわいいです。
自分が一番になれれば気持ちいいです。
しかし、現実には自分が一番になれることは少ないものです。
一番になれない時、あの人には勝っている、あの人よりはましだ、という風に、自分より下の人を見つけてはホッとしたりして、自分の自尊心を満たそうとします。

自分が一番になれるのであれば、他人を貶める必要はありませんが、自分が普通の場合には、他人の足を引っ張って自分より下の人間を作り出そうとしてしまいます。
いじめはその最たるものです。
いじめている本人も気が付いていませんが、いじめは無意識に自分の自尊心を満たそうとする行為なのです。

人は大なり小なり、他人と比較しながら幸せ感や満足感を満たしています。
自分より不幸な人、大変な人を見つけることで自分の幸せ感を感じてしまいがちです。
満足とか幸せというのは絶対的なものではなく、相対的なものだと思っています。
それは、学生時代に、自分が80点をとっても、平均点が90点であれば、今回の試験は他人からは高く評価されなくなります。

自分が評価してもらうためには、周りの人が自分よりも駄目である必要があるのです。
しかし、常に他人の不幸を期待したり望んでいる人が、幸せになれるはずがありません。
コンプレックスの克服は、人間が生きていくうえで克服すべき大きなテーマの1つなのです。
人は誰しも自分を高く評価して欲しいし、自分の存在をかけがえのないものだと思ってほしいと思っています。
それは、1人だけでなくていいのです。

友人の外人が
He is one of my best friends. と、紹介してくれたことがあり、この人はよくこの言葉を他の人にも使っていて、若い時の私には、ベストというのは日本的に言えば一人でなくていいのかな?と何度も疑問に思ったものですが、コンプレックスの解消にはこの思考が大切なような気がします。

I am one of the most happiness people.
自分が一番である必要はないのです。幸せな人は複数いていいのです。
誰かと競って、自分だけが満足や幸せであるのではなく、自分も幸せ、他人も幸せという思考がコンプレックスを解消してくれます。

I am OK. You are not OK.
は、コンプレックスを増長させますが、
I am OK. You are OK , too.
の思考をはぐくんでいくことでコンプレックスが少しずつ解消していくような気がします。

人間は自分が考えているような人間になってきます。
神様はそういう風に人を作っています。
いいことを考える人にはいいことが起こり、悪いことを考える人には悪いことが起こります。

コンプレックスで悩んでいる人は、「自分が、自分が……」という自己中心的な意識を捨てて、他人を尊重していく生き方がしていくしかないのではないかと思います。

I am OK.  You are OK , too.

比べて感じる幸せ

人は他人と自分を比べるから、自分を不幸に感じたりすることが多い。
「他人と比べる必要はない」「他人と比べることに意味はない」「人と比べる人生ではなく過去の自分と比べて生きろ」など頭では分かっていても、人生において、何とも比べないで生きていくことは不可能だと感じます。

「このお肉、美味しい」というのは、今まで食べてきたお肉と比較しているから美味しいと感じるだけであって、いつも高級肉を食べている人が食べたら、そのお肉は普通かそれ以下の可能性があるかもしれません。
「美味しい」というものは、絶対的なものではなく、何かと比較したうえでの表現なのです。

「あの人、賢いよね」というのも、自分の中での普通の人と比べて「賢い」「賢くない」と表現しているだけで、東大、京大の人が感じる「普通」と、一般的な学校の人が感じる「普通」では、大きな差があり、「賢い」「賢くない」というのも絶対的なものではなく、比較から発生する基準の一つだと思います。

「だからどうした……」と言われそう(笑)なので本題に入ると、人間にとって、誰もが望む「幸せになりたい」というテーマにおいても、「幸せかどうか?」は何かとの比較の問題なのだと思います。
「あなたは幸せですか?」と聞かれた時に、誰と比較するかで答えが違ってくるのではないでしょうか?

誰もが羨む憧れの有名人と比べれば、自分の人生なんか平凡で幸せと言い切れるほどのことではないような気がするし、恵まれない国の人と比べれば、明らかに日本人は幸せだろうと思えるし、幸せかどうかは何と比べるかが問題なのだとすれば、自分より下の人間と比べればいいのか?ということになってきます。

その場合、「自分より弱い人や恵まれない人を見つけて自分の幸せを感じる」ということに、何か差別的な罪悪感を感じる人は少なくないのではないでしょうか?
江戸時代に「上見て暮らすな、下見て暮らせ」という言葉がありましたが、自分が恵まれている方だと幸せに感じるためには、自分より下の人を見て暮らすことだという感覚なのでしょうか。

「自分より弱い人や恵まれない人を見つけて自分の幸せを感じる」ということは、相手を見下した間違った優越感を満たすための行動になってしまいます。
そして、その行動の先には、幸せは待っていなくて、「優越感を感じるためには、自分より弱い人見つけなければ…」という間違った負の循環になってしまいます。

それでは、正しい比べ方というものがあるのだろうか?
それは、人と比べる時には「他人と比べる人生ではなく過去の自分と比べて生きる」ことであったり、他人と比べる時には、その人に対しては敬意を示したうえで、自分の恵まれた環境に感謝することなのではないだろうか?

恵まれない相手を見下すのではなく、そんな苦しい状況でも負けずに頑張っている人を尊敬、応援しつつ、そのうえで、自分の恵まれた環境に感謝することで、間違った優越感が芽生えることもなくなってくるような気がする。

幸せを感じるためには、自分だけ感じる優越感ではなく、(相手に対する)「尊敬」と「感謝」の気持ちがセットでなくては、ならないような気がします。
幸せって、流されて生きることではなく、「尊敬」と「感謝」を意識しながら生きていくことで、感じていけるもののような気がします。

奪う幸せ~与える幸せ

幸せには4つのタイプがあります。
それは奪う幸せ、与えられる幸せ、獲得する幸せ、与える幸せです。

世の中には、人から何かをしてもらうことでしか幸せを感じられない”与えられる幸せ”を求める人が大半でしょう。
向上心の強い人は、自分で何かを“獲得する幸せ”を目指します。
そして本当の幸せは、人に与える幸せを知っている人なのです。

一方、最悪なのは、人から何かを奪おうとして、奪うことで得たものを幸せに思っていることです。
他人から何かを奪えば、奪われた人は取り戻そうとしたり、普段から、何かを奪おうとする雰囲気を感じ取れば、周りの人は奪われないように自然と防御が固くなります。
奪うタイプの人は、奪ったものは目減りし、日に日に奪いにくくなってきます。

一方、人に与えるタイプの幸せな人は、与えたことで幸せを感じた上に、与えられた人の一部は自主的に何かを与え返そうとするようになっています。
従って、何かを与えることで知らない間に複利がついてくるということなのです。

奪うことで幸せを感じる人は、法律的には牢屋に入らなくても、社会において日々不幸せ、恐怖心という重荷を背負って生きているのです。

人間の本能として、奪ってでもてっとり早く何かを得たいという気持ちが存在するのは仕方のない事かもしれませんが、人から奪うことだけを幸せに感じている人と接する場合には、不快に感じて当然ですが、そういう人は不幸という十字架を背負って、負のスパイラルの真只中にいる人であり、同情すべき可哀想な人なのです。

人生は、あるものを見つける練習

不幸になるのは簡単だ。自分が持っていないものに目を向ければいいだけだから。
逆に幸せになるのも簡単だ。自分が持っていることに気づけばいいだけだから。

私はこのセリフが好きです。
人間は無意識で生きていれば、自分が持っていないものを見つけようとして不幸な生き方をしてしまいます。
人は『幸せになる為にこの世に生まれている』のだとしたら、人生を通じて自分が持っているものに気づく練習をしていかなければならないのだと思います。

「灯台下暗し」と言われますが、自分が持っていないものには意識が行きますが、自分が持っているものには、当たり前すぎてなかなか気づかないものです。
自分が持っていないものを求め続ければ、不幸せな一生になってしまいます。
幸せになりたければ、意識して自分が持っているものの価値に気づくしかありません。

鳥は空気の存在に気づかないし、魚は水の存在に気づいていないと思います。
生まれつきあるものには気づきにくく、失ったときにはじめて自分が持っていたことに気づくものです。
健康や髪の毛やきれいな肌などと同じかもしれません(笑)
失って初めて持っていた有り難さに気づくように思います。

そうはいっても、失って初めて感謝するのでは、幸せになれないように感じます。
失う前に感謝するには………日々の毎日から「当たり前」の閾値を下げる生き方をしていく生き方や考え方をしていかなければならないと思います。

「当たり前」と思うレベルを下げていくことが、自分がすでに持っていることに気づき、感謝する機会が増えてくるのだと思います。
「当たり前」閾値を下げるには、日々の一瞬一瞬を精一杯生きることが大切だと思います。

人は必至で生きている時には、余計なことを考えなくなりますが、下手に余裕があるとマイナスのことを考え、ないものを探し始めるような気がします。
日々、必死に生きていくことが、感謝する習慣を身に着ける一番の近道のように感じています。

満たされているから不平不満が出てくる

50年近く生きてきて感じることは、人間は「足りないから不平不満を言う」のではなく、「満たされているから不平不満を言うようになってくる」のだということです。
日本は、戦後何もない状態から、奇跡の復興を遂げてきましたが、何もない状態で不平不満を言っていたらそれだけで一日が終わってしまいます(笑)

一方、多くのことで満たされている現代では、少しのミスや過ちを大げさに取り上げて、攻撃して来たり、問題にしてきます。
経営で言われることに、「苦労はともにできるが、利益を山分けすることは難しい」と言うのがあります。
お笑い芸人や歌手のグループで、売れるまでは協力し合って頑張ったのに、売れてから仲たがいして、グループを解散することをよく目にします。

売れるまでは、不平不満を言って足の引っ張り合いをするよりも、協力して、一日も早く今の現状から抜け出したいと考えますが、売れた後では、自分の貢献度の方が上だとか、他人の欠点ばかりが目につき始めるのが人間なんだと思います。

不便な環境で育った人間は、不便が当たり前の基準になりますが、恵まれた環境で育った人間は、すべてにおいて整っていることが基準であって、30点の環境を普通と思うのか、80点の環境を普通と思うのかで、「普通」と言う意味合いが天と地ほどの違いが生じます。

私の親は商売をしていたので、忙しくてあまり構ってもらえませんでした。
子供の時には、もっと構ってもらえていたら、もっと色んな知識などが身についていたのに、と思った時期もありましたが、今では、過度に構ってもらえないから、自分なりにいろんなことを工夫するようになったり、自分のことは自分でできるようになり自立できたと思っています。

今の時代、子供に対しても手をかけることが当たり前のようになっています。
娘の学校の校長先生が「子供に手をかけるのは簡単で、子供の力を信じて手を出さないことがこれからは親として特に大事になってくる」ということを言われていました。

親のレベルであれば、子供の代わりにいろいろとしてあげることは簡単なことです。
親としても気持ちがいいし、その場では、子供もありがたがるので一見いいことをしてあげているような気がします。

しかし、人間は慣れてしまう生き物です。
一度手を出して手伝ってあげると、1回目は感謝しても、2回目、3回目では、手伝ってくれるのが当たり前で、手伝わないと不満に思ってしまいます。

感謝というのは、左脳で考えるものではなく、右脳で感じるものです。
人は満たされた環境では感謝のできない人間になってしまうのです。
お腹がいっぱいの時には、どんなおいしいものを食べても美味しいと感じることはできません。逆にお腹がすいていれば、どんなものでも美味しく感じます。

人が感謝できるのは、その人が自分の力で精いっぱいに頑張っている時に、ちょっとした気遣いや思いやりに感謝の気持ちが芽生えるものなんだと思います。
だからといって、便利で恵まれた時代に逆行した生き方をしていくわけにはいきません。
恵まれた時代に生きていきながら、感謝の気持ちを忘れないためには、自ら、高い目標を掲げたり、困難を歓迎する生き方をしていかなければならないと思います。

食べ物のない場所で痩せることは簡単ですが、食べ物があふれている環境でダイエットすることは大変なのと同じで、恵まれた時代で、人として正しく生きていくためには、自分で自分を追い込んでいかなくてはいけない時代なんだと感じます。

そのヒントが、利己から利他へ、世の為人の為、なのではないかとかと感じています。
人間は「足りないから不平不満を言う」のではなく、「満たされているから不平不満を言うようになってくる」のだということを意識して、子供や社員に対して、手をかけすぎるデメリットを意識して厳しく接していきたいものです。

可愛い子には旅をさせよ

ここ数年、選択に迷った時には困難な方を選びたいと思えるようになってきました。
困難な道こそ多くの宝物(気づき)がある事が体感としてわかってきたからです。
そういう真実に気付いてくると、楽な方を選択している人を見ると「バカだな~」「もったいないな~」とつい、一言言いたくなってしまいます。

しかし、ちょっと前まで自分も好んでそういう楽な道を選択をしていたのだから、人のことを上から目線で言う資格は自分にもないし、1人でも多くの身近な人には、この真実を伝えたくなります。
昔から「可愛い子には旅をさせよ」という諺がありますが、自分の子供がかわいいからこそ、試練、困難に直面させることが大切なんだと思います。

しかし、頭では分かっていても、可愛いからこそ、自分の子供には試練や困難に直面させたくない、回避させてあげたいという気持ちが勝ってしまうのも当然の気持ちのように思います。
今の「楽」を優先するのか、将来強く生きていける「生き方」「考え方」の習得を優先するのかで、親のとる行動が違ってくるのだと思います。

特に今の時代、少子化で、恵まれた日本で子育てをしていけば、自然と過保護になってしまうものだと思います。
昔のように子供がたくさんいて、1人1人に十分かまっている余裕がなかったり、経済的にも生きていくだけで精一杯の時には、子供には最低限のことしかしてあげられないのが現実だったように思います。
親の方にも、余裕がありすぎる今の豊かな時代の副作用なのかもしれません。

ほとんどの場合、親は子供より先に死んでいきます。
親が子供の世話をやいてあげられる期間は限定的で、その期間が長ければ長いほど、子供の自立を遠ざけてしまうことになってしまいます。
そして何より「可愛い子供には旅をさせる」ために一番大切なことは、親自身が、試練や困難の先にこそ、生きがいややりがい、成長が待っていることを深い部分で感じていることが一番大切なのだと思います。

親自身の生き方として、「楽をすることの向こう側に幸せがある」「できれば困難は避けたい」「効率よく成功(いい思い)だけをして生きていきたい」などという、虫のいい生き方や考え方をしているからこそ、自分の子供にもそういう虫のいい生き方を信じ込ませてしまうのだと思います。

私は、30人以上の社員の指導者として、苦労や困難は避けるべきものではなく歓迎すべきものだ、ということをお手本として伝えていかなくてはいけないと思っています。
自分が、楽な道と困難な道が分かれていたら、困難な道を選ぶか、自分から選ばないとしても、そういう状況になった時には決して弱音を吐かないで、前向きにプラス思考で向き合っている姿を見せていかなければいけないと思っています。

「楽な道」「簡単な選択」はまやかしであって、その先には何も得るものがないということを、身を持って体験して、その考え方や生き方を身近な人にも伝えていきたいと思っています。
自分の子供に1つだけ伝えて死ぬとしたら、「困難の先にしか幸せはないし、楽をすればするほど、自分が苦しくなって不幸せになってしまう」ということを伝えたいと思っています。

こういう教えは、いくら口で伝えても伝わらないので、自分の生き方や後ろ姿で伝えていくしかないと思っています。
スタッフや自分の子供にも、大変だからこそ成長できるのだ、自分が手を貸すことは簡単だけど、その子の成長のためにも、自分の力で乗り切ってほしいと考え、あえて手を貸さない信念と勇気が必要だと思っています。

今の様に恵まれた時代だからこそ、あえて手を出さない、苦労を見守る大切さを伝えていく必要があるのではないでしょうか。
100人に1人以上が鬱になる時代に、親や上司が子供や部下に残してあげられる最も大切なことが、強く生きていける「強さ」なのではないかと思います。

物事には、目先の損得と長い目で見た損得があります。
今すぐに手を貸して目先の「楽」をさせることで、長期に渡って子供を「苦労」させてしまう結果になってしまうことが多々あります。

人は苦労するからこそ、周りに感謝でき他人を尊重もできるのだと思います。
誰かが安易に手を貸すことで、満たされていることが当たり前になってしまい、「なんで誰も手伝ってくれないんだ」と手伝ってくれることを当然のように考えてしまう人間になっていくのだと思います。

お腹をすかしているからこそ、食事のありがたみを感じます。
暗闇にいるからこそろうそくの明かりが輝いて見えます。満腹で、満たされてしまうと、あとは足りないものを探すしかないのです。

貧しい時代は、殆どの人が貧しいので、相対的に自分のことを不幸だとは感じにくいし、「豊かになりたい!」という夢や希望があったのに、今の時代は生まれた時からほとんどのものが揃っていて、子供の時から不平不満のオンパレードになってしまいます。

そういう意味では、これからの子供は大変だと思います。
ある意味、貧しい時代よりも何倍も大変な時代を生きることになります。
本当に、真剣に生きている人しか幸せになれない時代なのかもしれません。

今の時代、多くの人が心を病んでいるのは、恵まれすぎている時代の病のような気がします。
人は足りないから文句を言うのではなく、与えられ過ぎているから「もっとあれがない」と足りないものに目がいってしまうのだと思います。

今後の日本が、今のように満たされた環境が続くのであれば、1人1人が生き方を真剣に考えていかなければ、不平不満に満たされた感謝する気持ちも他人を尊重する気持ちも持たない、自分勝手な人間が一杯の国になってしまうのではないかと危惧してしまいます。

楽な道、安易な道に流されないで、人として正しい判断ができる人間を教育していくためには、物事を判断するときに、目先の誘惑にとらわれないで長期的な視点で教育できる人間になっていきたいと思います。
そのためには、まずは自分自身が試練や困難から逃げないで、その先にこそ大きな宝物があることを腹の底まで落とし込みたいと思います。

山中鹿之助のように「我に七難八苦を与えたまえ」と祈れる人間になっていきたいものです。
心の底からそう思えれば「可愛い子には旅をさせる」ことこそその子のためだと言動が一致するのだと思います。
子供は、親の生き方や考え方を肌で感じながら生きています。
親や大人自身が今一度、「幸せとは何か」「生きるとはどういうことか」を真剣に考えていかなければ、子供はどんどんダメな人間になって行ってしまう危機感を持っている人は少なくないと思います。

「ない物ねだり」と「足るを知る」

人間は、日々大きな矛盾に突き当たりながら生きていかないといけません。
その1つの例として、多くの場合与えられていることに感謝するのではなく、与えられていないものを欲しがるようにできているように感じます。

人間は「他人の芝生は青く見える」「ない物ねだり」をする動物なのではないでしょうか。
それは今持っていない物を、どうにかして手に入れようとがんばるから能力が向上するメリットもあります。
しかし、常に無いものを求めていたのでは、心が満たされることはありません。

平穏な気持ちになったり、満たされた気持ちになるためには、逆に自分の持っているものに感謝して「足るを知る」生き方をしていくことが大切になってきます。
このない物を手に入れようとがんばる姿勢と、持っているものに感謝して満たされた気持ちで生きている、一見相いれない2つの考え方のバランスをとって生きていくことはとても難しいのです。

理想としては「足るを知って」日々持っている物、与えられている物に感謝しながら、満たされた気持ちのうえで、目標を持って更に上を目指していくことなのでしょうが、人間は本来、怠け者なので、心が満たされていますと楽な方へ流されがちなのです。

心が満たされないで、今の状況を何とか良い方向へ変えたいと思うからこそ、つらい努力も出来るのです。
気持ちが充実していて、モチベーションが高い時は上昇志向で上を目指して、心が晴れなくて、前向きになれない時には、過去の自分を誉めながら足るを知って幸せを感じていくのが正解のように感じます。

自分に対して常に鞭打って叱咤激励していたのでは、自分の事が嫌いになってしまいますし、幸せを感じる事が出来ないのではないでしょうか。
スポーツにおいても、トレーニングと休息のバランスが大事なように、「ない物ねだり」と「足るを知る」バランスをとれる人が仕事においても、人生においても成功者となれるのだと思います。

この関係をスポーツで例えて言えば、「トレーニング」が「ない物ねだり」に当たり、「休息」が「足るを知る」ことになるでしょう。
このバランスの取り方は、各々の性格や今現在おかれている状況によって違ってくるのではないでしょうか。

「人は幸せになる為に生きている」「自分の事を好きにならなければ他人に優しくできない」という原理原則からすると、「足るを知って」意識的に自分を受け入れて誉めることをしていく事はとても大切なことだと思います。

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